中部商高から日本文理大へ…18歳で沖縄を出ると決心「プロを目指すなら」
ずっとプロ野球選手になりたかった。「バカにされた」夢をついに叶えることができた。ソフトバンクは24日、4選手の支配下選手登録を発表。その中の1人が、前田純投手だ。高校時代は3年間で1度もベンチ入りができず。決して、エリート道を歩むような野球人生ではなかった。自分を変えてくれた恩師との出会い、プロ入りを目指すために“覚悟”が決まった瞬間――。キャリアについて、具体的に語った。
2000年6月4日生まれで、沖縄県沖縄市出身。今季はウエスタン・リーグで12試合に登板して7勝1敗、リーグトップの防御率1.46と好成績を残して背番号2桁を掴み取った。この日の会見でも、インタビュアーに「もう1度いいですか、すみません」と質問を聞き直して周囲を笑わせるなど、天然な一面も魅力の1つだ。そんな左腕は、どのようなキャリアを歩んできたのか。プロ野球選手になる夢は、チームメートから「バカにされてきた」と明かす。
軟式野球からキャリアは始まり、中部商高に進学した。高校時代の最速は126キロで「Bチームのエースって感じでした」と、チームの中での“番手”も高くなかった。プロになった今、振り返ってみれば自分の取り組みも徹底できていなかった。「ちゃんとしていなかったというか、思い返したら『プロに行く』って高校の時から言っていたんですけど、バカにされてきました。『だったらもっと頑張れよ』みたいな」。当時は体の線も細く、練習についていくだけで精一杯だったそうだ。
3年間でベンチ入りは1度もできなかった。「3年の春に入るかもしれなかったんですけど、自分の体調不良もあって」。1学年で30人以上の部員がいる戦力層にも阻まれ「自分の代は特に多かったんです」と、背番号をもらうことなく3年間を終えた。「普通にスタンドで応援していましたね」。3年夏は県大会の準々決勝で敗れて、甲子園にも届かなかった。すぐさま監督と面談をして「『頑張るか?』と言われて『大学でやりたいので、頑張ります』とやり取りしたのは覚えています」と振り返るのは、暑い夏の思い出だ。
幸い「成長を買われたのか、わからないですけど、3つか4つくらい」の大学が声をかけてくれたそうだ。選んだのは、大分県の日本文理大。セレクションにも行ってみると「環境がめっちゃいいなと思った」と、胸を打たれた。18歳ながらも沖縄を出るという決心は「出たかったんです。プロを目指すなら沖縄だとキツいとも思っていましたし」とすでに固まっていた。
大学で出会ったのが、元ソフトバンクの吉川輝昭コーチだ。NPBでも160試合に登板した恩師から「初めて、フォームをしっかりと教わりましたし、フォームに行き着くための練習を教わりました」と、全てが新鮮な経験となった。189センチの長身を生かすために「身長があるなら角度を付けた方がいいんじゃないかと。上から投げるのをキャッチボールから意識して、自分の特徴を生かした投げ方になって、自信もついて投げられるようになりました」と、成長はボールにどんどん表れていった。吉川コーチとともに、覚悟を決めた日のことが、今でも忘れられない。
「プロに行きたいということは伝えたんですけど『もしプロに行けなかったらどうするんだ』って最初に吉川コーチに言われました。もしそうなると、独立しかプロに行く道はなかったので『独立に行きます』って伝えて、コーチとの練習は始まりました。それが最初でした」
高校時代は「バカにされた」夢を、本気で目指すと決めた。プロ志望届を提出して、2022年10月20日、運命のドラフト会議当日を迎える。日本文理大で進捗を見守り、ホークスから育成ドラフト10位で指名されて「行けなかったら独立で勝負しようと思っていたので、本当にうれしかったです。『よっしゃ』って言うよりは『うわ、よかった……』って感じでした」と、待望の吉報を喜んだ。育成から2桁へ。新しい51番のユニホームが、恩返しの第一歩だ。
一切、ブレなかったプロ野球への夢。はじめにその感情が芽生えたのは、野球漫画「MAJOR」の主人公・茂野吾郎への憧れだったそうだ。初々しさたっぷりの会見でも、最後だけは「長く活躍して、いずれはソフトバンクのエースと呼ばれるようにしたいです」と力強く言い切った。これからも追い続ける夢は、もう誰にも笑わせない。
(竹村岳 / Gaku Takemura)