「『1日でも早く1軍に入らなきゃいけない』っていう気持ちがありました」
3球団競合の末に、2016年のドラフト1位でソフトバンクに入団した高橋純平投手は、今季限りで現役を退くことを決めた。このオフに戦力外通告を受けると、12球団合同トライアウトを受験。現役続行を目指していたものの、希望していたNPBの他11球団からのオファーはなく、野球を辞めることを決断。来年からはソフトバンクの球団職員として働くことになる。
高校時代は150キロを超える剛速球を投じ、県岐阜商のエースとして2015年春の選抜に出場するなど、世代ナンバーワン投手として注目の存在だった。U-18にも選出され、同年のドラフト会議ではソフトバンク、中日、日本ハムの3球団が競合し、翌年からの新監督就任が決まっていた工藤公康氏がクジを引き当てて交渉権を確定させた。“期待のドラ1”として、ソフトバンクへ入団することが決まった。
3球団競合のドラフト1位ということで周囲の期待は大きかった。そして、それはまだ18歳の青年には大きなプレッシャーとなっていた。「1年目、2年目くらいまでは、今すぐ活躍しないといけないっていうプレッシャーのある中でやっていました。『1日でも早く1軍に入らなきゃいけない』っていう気持ちがすごくありました」。そんな中、新人合同自主トレ初日に怪我で離脱。常に焦りを抱えながら過ごすプロ生活のスタートだった。
入団前はプロ野球の世界はどんなものか、想像もできなかった。プロ野球をテレビで見たこともほとんどなく「ドラフトの制度もそんなに知らなければ、プロ野球ってどういう野球をやってるとか、どういう組織なんだっていうのも知らなかった」。そんな青年がドラフト1位の肩書きと共にプロの世界に身を投じたとなれば、重圧は計り知れないものだったろう。
常に付き纏っていたプレッシャーから解放されたのは、3年目になってからだった。きっかけは倉野信次投手コーチからの一言だった。「倉野さんに『2年も経ったら、お前がドラ1で入ってきたこと誰も覚えてないから』って、ちょっと強い言葉ではあるんですけど、そう言ってくださったんです。その時に自分の中で肩の荷が下りたというか……」。新たに“ドラ1”の看板を背負った選手が2人、チームに加わっていた。倉野コーチの言葉をキッカケに“ドラ1”の十字架を下ろすことができた。
その1年後にブレーク…45試合に登板して日本一に貢献
その1年後、2019年がプロ生活で最高の1年になった。5月に1軍に昇格すると、徐々に結果を残し、シーズン終盤には勝ちパターンの一角を任されることも。キャリア最多となる45試合に登板し、3勝2敗17ホールド、防御率2.65の好成績をマークし、日本一にも貢献した。
「本当に充実していたと思います。本当にその年は野球が楽しくて、すごくいい年でした。野球が本当に楽しいな、プロ野球ってこんなに楽しいんだって思いましたね。日本一の瞬間以上に興奮することってないなと思いますし、あの瞬間にのみプロ野球選手って報われるんだなって思いました。工藤監督を胴上げして、みんなでビールかけをして、あれ以上に幸せな時間ってのはないでしょうね」。いま振り返っても格別な時間だった。
日本一になった直後、工藤公康元監督からかけられた言葉が今も脳裏に焼きついている。「ちょっと時間が経って『ここで来年どうなるかが勝負やで』『ホークスの場合は2年目のジンクスは存在しないから。どんだけ自分を律することができるかだ』って個人的に言われたのを覚えています」。特に投手に厳しい工藤元監督らしい言葉だった。
ただ、コロナ禍で開幕が遅れた2020年、右肩と右肘の故障で1軍登板なしに終わった。工藤監督からの助言を活かせず「工藤さんに対してすごく最後申し訳ない、期待に応えられなかったなっていう気持ちが今でもあります」。2021年は1軍で10試合に登板したものの、その後、再び怪我で離脱。その年で工藤監督は退任。もう一度、恩師に貢献できなかった悔いが残る。
工藤監督がクジを引き当てたところから始まったソフトバンクでの8年間。「一言で言ってしまえば苦しいことが多い野球人生ではあったんですけど、ホークスだからこそ、それと同じぐらい良い思いをさせてもらいました。チームメートとか、スタッフの方とか、すごくいい球団だったと思います」。ドラ1の重圧と戦った最初の2年、プロとして最高の瞬間を味わった1年、そして苦悩し続けた引退までの4年間。高橋純平は2024年、第二の人生を歩み始める。
(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)