プロへの道を切り開いてくれたのは“魔球”との出会いだった。そして、この“魔球”と共にまだまだ夢を追い掛けるつもりだ。ソフトバンクからこのオフに戦力外通告を受けた瀧本将生投手は、2021年の育成ドラフト11位で入団。千葉・市立松戸高から同校史上初のプロ入りを果たしたが、怪我もあって思うような結果を残せぬまま、高卒3年目で無念の退団となった。
瀧本の野球人生は“奇跡”の連続だった。「多分、他(の学校)やったら埋もれていました。野手だけしかやっていなかっただろうし……」。まず運命を変えたのは、市立松戸高への進学。中学時代に同校の朝隈智雄監督から「瀧本はプロにできる」と熱烈な“オファー”をもらった。他の強豪私立から特待生の話もあったが、すべて断り、受験して公立校に進学した。もともとは外野手だったが、監督の慧眼と自身の希望が重なり、1年秋に投手に転向した。
すぐに直球は130キロを超えるようになった。さらに遊び感覚で投げていた変化球を思い出すようにして試すと、スライダーが想像を超える縦変化を描いた。「前から遊びでは投げてたんですけど、『これ使えるじゃん』と思って。そういえば、と思い出した感じです」。すぐに相棒となったのが、この“縦スラ”だった。
当時、チームの正捕手は1学年上で、瀧本が「クソ真面目で、1番尊敬している」と慕う先輩だった。その先輩たちが修学旅行に行っている間に瀧本ら1年生は思う存分、練習に励んだ。「やりたい練習をいっぱいできるからすごく楽しくて、めっちゃ練習したんですよ」。修学旅行後すぐに行われた練習試合。瀧本は“思い出したばかり”のスライダーで面白いように三振を奪った。ただ、この先輩捕手がボールを止め切れず、3つほど振り逃げも記録したという。
その試合後、朝隈監督が先輩に“ブチギレ”た。「お前らが修学旅行に行ってる間、こいつらずっと練習してたんだよ。こいつの数日間の成果をお前が潰してるんだ!」。かなり強い口調だったことを瀧本は鮮明に覚えている。「マジで泣かされるくらいの勢いで怒られていました。でも、その日からその先輩は引退するまで毎日『全部俺が止めなきゃいけない』って、練習後にストップの練習をしていました。それから、どこに投げても止めてくれるようになって、今のスライダーがあるんです」。先輩の努力なしに“魔球”にはなり得なかった。
3年生になる瀧本の前に立ちはだかったのは新型コロナウイルスの大流行だった。「(2年時の)秋も春も自分が投げて負けたんです。だから、夏は先輩たちのためにマジで頑張ろうと思っていました。それなのに、コロナで大会がなくなってしまって……。恩返ししようと思っていたのに、そこから虚無感に襲われてしまいました。この人たちと野球できなかったら意味ないなと思うくらいでした」。完全に目標を見失ってしまっていた。
そんな瀧本を見かねて、叱責してくれたのも朝隈監督だった。「お前、そんなんでいいんか!」。右腕の能力を信じてくれた監督は、これも成長の機会と捉えたのかもしれない。「『お前が(背中で)見せなきゃダメだろ』みたいに言われて。人間指導みたいなのが始まりました。そこからは(野球より)そっちの方が伸びた気がします」。後輩たちとの接し方にも意識を振り向けるようになり、自身の新たな一面も見出すことが出来た。
体を投げだしてボールを止めてくれた先輩がいなくなると、再びスライダーを捕れる捕手はいなくなった。これまでなら投げることを諦めていた瀧本は「振り逃げは仕方ない」と割り切り、考えを変えた。熱心な朝隈監督の下で、野球人としても人としても成長した。12球団合同トライアウトは地元のZOZOマリンスタジアムで行われる。自身を育ててくれた人に感謝の気持ちを込めて、夢を繋ぎ止めてみせる。