田舎で深まった絆…仲間との別れに「それでいいのか?」 石塚綜一郎を変えた親との車中

プロ初本塁打を放ったソフトバンク・石塚綜一郎【写真:小池義弘】
プロ初本塁打を放ったソフトバンク・石塚綜一郎【写真:小池義弘】

楽天戦でプロ初安打&初HR…秋田県秋田市の出身で「僕のところは田舎」

「お前はそれでいいのか?」

 恩師からの一言を、今も忘れられない。東北で記念の一打を放ったことも、何かの縁だ。1-2でサヨナラ負けを喫した21日の楽天戦(楽天モバイルパーク)。「7番・指名打者」で出場した石塚綜一郎捕手はプロ初安打とプロ初本塁打を記録。2019年に育成ドラフト1巡目で入団した23歳を“変えた”出来事は「中学校1年生の秋」にあった。

 2回2死、相手先発・内の変化球を弾き返して中安打を記録すると、記念のボールはすぐさまベンチに戻ってきた。第2打席は両チーム無得点で迎えた5回無死だった。145キロの直球を振り抜くと、白球は左翼ポール際へ。ファウルかと思われた打球は風にも流されてポールの内側へ。「今まで取り組んできたポール際の打球が切れずにフェアゾーンに返ってくる理想のバッティングができました」。初本塁打を含む2安打1打点1四球。3度の出塁を果たした。

 記念すべきプロ1号を放つまで、石塚がどんな人生を歩んできたのか。深く印象に残っているのが仲間との“別れ”だ。野球は祖父の影響で始めた。秋田市の出身で、自宅のテレビには仙台を本拠地とする楽天戦が映っていることが多かった。「市内ですけど、僕のところはめっちゃ田舎です。1学年1クラスで同級生は12人しかいなかった。男子はみんな野球をしていました」と、苦笑いを浮かべながら回想した。

 最初に入団したのは岩見三内スポーツ少年団だった。石見三内中に進み、転機が訪れた。「中学校1年生の秋に、秋田南リトルシニアに入ったんです。たまたま、車で市の中心の方に行くときに、シニアに入っている同級生が走っていたんです。そこからちょっと硬式っていうのが気になり始めました」。高いレベルで野球がやりたいと、ぼんやり頭にあった。少しずつ気持ちは傾いていった。

「それまでは自由に、自分がやりたいように伸び伸びとやらせてもらっていましたけど、硬式を先にやっておいても損はないよなって思って(硬式で)やってみたい気持ちもありました。でも、僕らの部活は人数も少なかったし、その中でも僕はずっと試合に出ていたので、申し訳ない気持ちもありました。学校でも基本的に何かしらの部活に入るようにっていうのは言われていたので」

 小学校も中学校の部活もチームメートは同じメンバー。思春期ながらに、仲間を“裏切る”ような気持ちを抱いた。「中学校の先生と『本当にそれでお前はいいのか?』『決めるのはお前だから、その道を進むんだったら……』みたいな面談をしましたね。ずっと同じチームでやっていたので、本当に気まずかったです。1人だけ部活に入っていないことにもなりますし、気まずかったことだけは覚えています」。

 両親の交友関係も石塚の決断を後押しした。親の運転中、助手席に座っていた石塚は、シニアに気持ちが傾いている胸の内を打ち明けた。「止められることはなかったです。親も、シニアの監督さんと仲が良かったんです。親が前に働いていたところの社長さんだったりして、その話をしたら『来いよ』って」。最終的には自分の気持ちに従い、秋田南リトルシニアに入団した。

 高校は岩手の黒沢尻工に進んだ。進学先を決める家族会議も開かれた。石塚本人は巨人の坂本勇人内野手に憧れ、青森の八戸学院光星高を希望していたが、「シニアの監督が『そこ(黒沢尻工)に絶対行け』みたいな……。シニアの監督さんの息子さんが光星で、ずっとそこが良かったんですけど、監督が『試合に出られる方がいい』『1年から出られる可能性があるから』って」。プロへの道を考え、周囲の勧めもあって秋田を離れる決断をした。

 そこで、いきなり期待に応えた。入学式が行われる予定だったのは、4月のとある月曜日。石塚は振り返る。「その前の土日に試合があって、そこから出させていただいていました。その3打席目に1本目のホームランをを打って、次の日もホームランを打ちました。ただ、その時は守備がダメでした」。1年の夏から背番号は「5」。高校通算39本を記録できたのも「1年生から出させていただいたから」と感謝は尽きない。

 23歳となり、高校時代までを過ごした東北の地で、初安打に加えて初アーチも架けてみせた。試合後、小久保裕紀監督からは「1軍に長くいるには、やっぱり守れないと」と、守備面を課題にあげられた。高校時代から痛感している自分の弱点とは向き合わなければいけない。お世話になった人たちへ贈るホームランを、1軍で何本も放つために。

(竹村岳 / Gaku Takemura)